私の手元には、松野莉奈さんの写真がある。気力あふれる眼差し、透き通るような肌、大人としては生硬な顔立ちに、しかし深遠で壮絶な覚悟を見つけることができる。それは『プラダを着た悪魔』のアンドレアのような、認められるためにあらゆるものを捨て去る命懸けの覚悟である。美人薄命とは、じぶんという存在にすべてを賭けたひとの覚悟、それによって定められる短命な生気、その美しさのことを言うのかもしれない。

 彼女のことを知ったのはごく最近のことだった。地方新聞の片隅のちいさな訃報欄、たった三行の公器的な文章で、十八歳の女性アイドルが急死したと報じられていた。板チョコの縦一列にも満たない紙面に、まったく不可解でひどく突発的な焦りをおぼえた。

 松野莉奈の写真を集め、見遣る。その一枚一枚に私はなにひとつ間に合わず、情け容赦のない彼女の届かなさに、ただただ途方に暮れることしかできなかった。

 そのすべてが「遺影」として表れる。もう会うことも触れることもできない相手を、遺影でもって愛すると決断しなければならない。雑誌や写真集などに遺った面影を、改めて松野莉奈として愛し替える。遡れないものを遡る手段としての写真、戻れない場所に戻る想起としての遺影。写真は「遺しておく」ことができるという点において、《あの時のあの場所》に還ることの絶対的な不能さを和らげてくれる唯一のものである。

 かつてスーザン・ソンタグは「私たちは恐怖を感じたときに銃を執り、郷愁を感じたときに写真を撮る」と語った。郷愁というのは、そんなものなかったんだという悔恨の気持ちと、それはたしかにあったんだという哀惜の気持ちが両立したところに生じる。言い換えれば、むかしの写真を見たときの「そうそう、これこれ」という肯定的な気持ちと、「でもやっぱりこれじゃあないんだよ」という否定的な気持ち。あったしなかった、なかったしあった。写真は、思い出と今現在の中間地点にみずからを宿し、悔恨と哀惜のパラドキシカルな接続方法で私たちを支えている。

 それは、化粧をほどこし、上等な上着をはおって、腕利きのカメラマンにフォトスタジオで撮ってもらったベストショットだけではなく、ちょっとしたパーティ、おでかけ、なんとなく撮った日常の諸風景、設定をまちがえた手ぶれの失敗写真、知識不足の拙い構図、被写体の一部が白飛びしている下手な露出の修正不能なデジタル写真(私がよくやるやつです)、きっとなんでもよい。その場で間違えたと思った写真でも、消さずにとっておくと〈後から〉よい写真になる遅効的な一枚もあるだろう。

 ある写真家は「なんでもない日常写真」をちいさいころから家族が撮ってくれていたおかげで、「知らないはずなのに知っている」という感覚になれたと語る。きっと、こんな日常なんて流れていってほしいという気持ちと、こんな日常もあったと思い出したいという気落ちが郷愁としてあったから、その毎日の光景を撮ったのだろうと思う。それがどんなに平凡でも、一瞬先で過去として待ち構えている私の――そしてあなたの――いつか思い出したくなる”1/100″秒だからこそ、郷愁の対象となるのである。一秒にさえ満たない過去を、ほとんど無内容に等しい一瞬を、悔恨と哀惜のあいだで遺影すること、そして思い出すことによって愛しなおすのである。

 風景を撮る、自然現象を撮る、鉄道を撮る、建築を撮る、学校を撮る、街並みを撮る、生き物を撮る、人間を撮る、空模様を撮る、日常を撮る、その写真はいつか必ずだれかの記憶を助ける。だれかがなにかを思い出すことに寄り添う。遺されたもののための影として、あるいは光として、その写真は素敵なものとなる。失敗写真だと思っていたものでも、後から後から、その写真にしか掬えない記憶が掬えることだろう。だれかが亡くなり、遺体になった。これまで「そのひと」だと思っていた身体は、単なる物体となり、遠ざかってゆく。手を繋いでも、ハグをしても、以前のような感覚は戻らない。

 そのひとの身体は、べつにそのひとなんかではなかったのだ。身体が代表してくれていただけで、もう身体は「そのひと」を代表してくれなくなった。それは「遺されたひと」の現実的な困りごとである。声も届かない、熱も伝わらない、見詰め合うこともなければ、交渉することも交通することもない。身体に演じさせて愛するやりかたが封じられ、愛のあらゆる回路が伏せられてしまったとき、私たちは「思い出す」という中動形の行為を経由して、そのひとの身体と面影を愛し替える。

 すべての遺影が、私の愛を代わりに受け取ってくれる。形見や遺品、遺影や遺産、故人を思い出すきっかけとなるものはたくさん存在している。それらを回路としてひとたび遺影と通じることができれば、ふたたび故人と「友のように打ち解ける」ことができる。私たちは遠い先祖のことでさえも、そのような仕方で愛している。

 墓石か、記念碑か、遺留品か、写真か、武勇伝か、遺伝的なパーツか。ほのかに香る先祖の残り香を、思い出すという形で愛すのである。遺された者、受け継がれた者にとって、もはや肯定することしかできない「遺影」を、私は撮りたい。その写真が式場の真ん中に飾られなくとも、何十年後、百何年後、子孫に受け継がれるような生きた写真を撮りたい。私たちが、きっと無意識のうちに、「この身体をこのひととして愛そう」としたように、子孫が「この写真を先祖として愛そう」と思ってくれるような一枚を、私が、あなたが、撮る。そしてそれは人物だけではなく、先祖だけではなく、風景もおなじである。

 私は地元の「JR国立駅」駅舎の建て替えに間に合わなかった。2006年10月、学習塾に通っている途中、なにやらポケットのたくさんある地味な服を着たおじさんたちが、犇めきあって国立駅にカメラを向けている姿だけを見た。「いい年をした大人がみんな揃って駅なんか撮ってどうするんだ、くだらないなあ」と見下しさえしたかもしれない。そもそも駅舎に別れを告げることがどういう感情なのかさえ、満足に理解できていなかっただろう。

 当然、あのとき、まさかじぶんが駅舎に「遺される」なんて思っていなかった。国立駅自体はあるのだし、風貌がすこし変わるだけだと思っていた。それはなにも哀しむべきことでもなく、むしろ新しく安全になるのなら全幅の歓迎をするべきだと思っていた。「高架化」という変化が、どれだけ風景を変えるのかさえイメージできていなかった。なんの準備もないまま、私は間に合わずに《取り=遺された》。

 十年以上経って、デジタルカメラを手に取り、風景や光景とじぶんなりに向き合うようになり、その切実さがわずかにわかるようになっても、私はずっと、ほんとうにほんとうにほんとうに哀しいことに、あの旧国立駅の立派な姿ではなく、切実な想いを抱きながらシャッターを切っていたカメラマンの後姿を思い出す。

 大きな風景の終焉に間に合うには、私はひどく未熟だった。

 だから私は、じぶんの風景や光景に間に合いたい気持ちで写真を撮る。

 ジャンケレヴィッチが「郷愁に動機はない」と言ったように、〈あれ〉とか〈これ〉という内容を撮るのではなく、私自身の過去を写したい。どんなに平凡でもいい。

どんな写真も、遺しておく価値がある。
どんな一枚も、だれかのなにかの遺影として素晴らしい。


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写真情報

1枚め:「生じながら消えゆくものとともに祈る」PENTAX K-50 – F2 – 1/80 – ISO800, At Akihabara――風の強い日だったので何度も撮り直すことになりました。
2枚め:「しごおわ」iPhone5 初期アプリ – At Shinjuku――仕事終わりにパシャ。
3枚め:「渋谷川」PENTAX K-50 – F4 – 1/100 – ISO200, At Shibuya, the Shibuya River――渋谷には川がないと思われがちですが、暗渠になる寸前の渋谷川が渋谷駅前で見られます。‎2016‎年‎2‎月‎28‎日、再開発途中の渋谷です。

文献・注釈

『Beauty Lady Television Ebi Collection Vol.8 オトナとコドモ オトナトコドモノアイダ?』表紙=松野莉奈(出席番号9):冒頭で言及した雑誌。同誌『Beauty Lady Television 2016年11月号』では、「高校を卒業したら、お父さんが料理を教えてくれるって言っているんですけど、お父さんはシェフなので、ビシバシしごかれるらしいです(苦笑)…1人だと大変そうだから、料理を覚えたいエビ中メンバーを呼ぼうかな。一緒に勉強したら、あんまり怒られないかもしれないから、そうしよう♪」というお茶目なインタビューも。

ワイズバーガー『プラダを着た悪魔』:鬼の女編集長ミランダ(Miranda)にこき使われ、同僚のナイジェル(Nigel)に愚痴をこぼすアンドレア(andy)。忙しいなか「だったら辞めたらいい/So Quit」と答えるナイジェル。アンドレアの欠点を見抜き、正論を畳み掛ける――「可哀想なアンドレアって言ってほしいのかい? 目の覚ませ、ミランダは仕事をしているだけだ」「君が見てきた芸術作品よりもすごいものを作っているんだ」「どれだけの伝説がここを歩いたかを知るといい、死んでも君と代わりたいやつが五万といるんだから」。これによってアンドレアは覚悟を決め、恋人との生活も、友だちとの交流も捨てて、死ぬ気でやり抜き、ミランダに認められる。
(以下、当該スクリプト)
Andy Sachs: Quit?
Nigel: I can get another girl to take your job in five minutes… one who really wants it.
Andy Sachs: No, I don’t want to quit. That’s not fair. But, I, you know, I’m just saying that I would just like a little credit… for the fact that I’m killing myself trying.
Nigel: Andy, be serious. You are not trying. You are whining. What is it that you want me to say to you, huh? Do you want me to say, “Poor you. Miranda’s picking on you. Poor you. Poor Andy”? Hmm? Wake up, six. She’s just doing her job. (…)And what they did, what they created was greater than art because you live your life in it.(…)You have no idea how many legends have walked these halls. And what’s worse, you don’t care. Because this place, where so many people would die to work you only deign to work. And you want to know why she doesn’t kiss you on the forehead and give you a gold star on your homework at the end of the day. Wake up, sweetheart.

スーザン・ソンタグ『写真論』(On Photography):”When we are afraid, we shoot. But when we are nostalgic, we take pictures.”

ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』:「哀惜は、回顧する情景だ。あるいは、逆さの希望。未来志向の憧憬である希望が、いわばまともな向きの哀惜であるように……。哀惜が、逆光できないものを逆転するというまことに空しい幻想と両立することができるとしても、悔恨は、取り消せないものをけっして取り消せない絶望だ。哀惜は人間の空虚を埋めたい、あるいはただたんにふたたび生きたい、戻りたい、引き止めたいと思う。悔恨の人間は、逆に、生成のでっぱりを消したいと願う。その意図は過去をふたたび生きることではなく、むしろ《生きなかったとする》ことだ。ときには悔恨の人間は取り消さねばならないあやまちのこちら側に戻ると信じ、ときにはこのあやまちを越えて向こう側に生成し、頭を低くして将来に向かってつっこみ、呪われた過去からできるかぎり逃げ去って新しいものを作ることを希望する。あるいは、向こう側に生成する欲求は、こちら側に戻る欲求ほど幻想ではないのかもしれない。そして、哀惜がある非存在やとくに思い出という名の相対的非存在によって惹起された苦しみあるいはものうさであるのに対して、悔恨はまさに虚無を求める、ないしは、すくなくともある過去を虚無としたいと欲しよう。哀惜は悔い惜しむ過去の空しい魅惑に捉えられるが、悔恨はつきまとう過去を絶滅したいと思う。」(仲澤紀雄・訳)

『写ガール vol.30』「小さいころの記憶はあまりないのに『あれ? これ知ってる』という感覚になることがあり、考えてみるとそれは家族が撮った写真を見ていたから、と気付いたとき、何でもない毎日を残したいと思ったんです。」(読者企画『だから、私は写真を撮る』写真家のん「消えない記憶を作りたい」)

マリク・リブー「写真を撮ることで、1秒に100回も生きていることを噛みしめることができる/Taking pictures is savoring life intensely, every hundredth of a second.」(出典不明)

ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』:「一人の死者を注意深く眺めていると奇妙な現象が生じる。体に生命がないことが、体そのものの完全な不在と等しくなる。というよりも、体がどんどん後ずさっていくのだ。近づいたつもりなのにどうしても触れない。これは死体をただ見つめている場合のことだ。ところが、死体の側に身をかがめるなり、腕か指を動かすなり、死体に向けてちょっとした身ぶりを示すと、途端にそれは非常な存在感を帯び、ほとんど友のように打ち解ける。」(鵜飼哲・訳)

ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』:「過去が郷愁の対象なのは、あれあるいはこれとしてではなく、その内容のためではない。過去はいかに平凡でも、われわれの過去だから、郷愁の対象なのだ。」(仲澤紀雄・訳)