(PENTAX K-50 – F2.2 – 1/100 – ISO800 – at Jindai-ji Temple, Musashino Jindai-ji Gama, Rakuyaki Pottery Class:深大寺の陶芸体験で皿にぼのぼのを書いてもらいました)

いろいろな写真家、それぞれの正しさ

 カメラには、無際限の《ちょうどよさ》がある。

 「最終的に眼がカメラだったら最高」(2016年8月20日NHK教育テレビ『SWITCHインタビュー 達人達』)と言って写ルンです(富士フィルム)で撮り続ける写真家もいれば、「#ファインダー越しの私の世界」という人気タグを生み出す写真家もいる。

 あるいはカメラで視ることには興味を持たず、ひたすらレンズの付け替えを楽しむガジェット派のひともいれば、隠し撮りで人間の素性に迫りたいというひともいる。知識のマニアックさをたのしむひと、出かける口実にするひと、ブランド愛を磨くひと、日々を記録するひと、芸術表現を企てるひと、セルフイメージをきわめるひと、暗室作業や現像をたのしむひと、地球を観察するひと、写真を贈りものにしたいひと、カメラ女子に変身したいひと、おなじ趣味で友だちを増やしたいひと、他人の作品を批評したいひと、コンテストで認められたいひと、個展を開きたいひと、ことばも音も使わずだれかを感動させたいひと、稼業にして食っていきたいひと、機材を操るのが好きなひと、機材の限界に挑戦したいひと、偶然と出合いたいひと、構図の比率や距離の計算に心躍るひと、「せっかくだから一枚撮るよ」と言いたいひと、「写真を撮るのも忘れるほど美しい景色だった」と言いたいひと、「君は写真言語のわかるレタッチャーだね」と言われたいひと、じぶんの見ている世界を豊かにしたいひと、失われてゆく風景がなくなる瞬間に間に合いたいひと……。

 カメラというのは、必ずだれかの《ちょうどよさ》に落着してゆく。

 それがそのひとにとっての個人的な「正しさ」となり、他人と比較しても具体的な意味をなさなくなる。もちろんそこにたどり着くために他のひとの《ちょうどよさ》を見聞きして相対化することはあるかもしれない。逆に自身の内面を奥の奥まで見詰め続けることもある。

 「ニコンだ!」「いいや、キヤノンだ!」とか、「フルサイズだ!」「いいやAPS-Cだ!」とか、「芸術だ!」「いいや科学だ!」とか、他愛もないインターネット雪合戦をしている最中に、あれ…と突然なにかに気づくこともある――ドローン空撮しているときに気づくこともあるだろうし、海撮や山撮しているときか、ポートレイトか、コスプレイベントか、ウェディング撮影か、お泊り保育の撮影か、建築撮影か、違法駐車の撮影か、コマーシャル撮影か、とにかくなにかの拍子にじぶんだけの言語化不能な《ちょうどよさ》に気づくことがある。

 それは常に既にそのひとにとってのみ絶対に正しい。

(PENTAX K-50 – F2.2 – 1/40 – ISO1600, at home:クリスマス蔵書整理会の様子です。奥に写っている子が柿を剥いてくれたのでみんなで食べました)

個人的な正しさは、祝うことしかできない

 私にとって、カタログを暗記してスペックの詳細を言えたからどうという話ではない。――「K-50」は入門機なのに写りはミドルクラスだの、防塵•防水•手振れ補正機能付きだからどこでもどんなレンズでも撮りに行けるだの、視野率が100パーセントだから見たまま撮れるだの、ダストリダクションで清潔だの、カメラ内現像ができるから帰りの電車内で画作りできるだの、丸みを帯びたフォルムが女子にウケてるだの、カラーバリエーションが豊富だの、私はそういう「検索結果みたいな話」がしたいわけじゃあないし、したところで仕様がないと思う。

 私にとっての愛用のカメラというのは、そういった記号的•機能的な説明によって表象されるものではない。狭苦しい記号にしてしまったら最後、私にとっての《ちょうどよさ》は損なわれてしまう。だから私は、私の愛用のカメラを祝うことしかできない。その《ちょうどよさ》に感動して、大いに祝福することしかできない。

 「よかったよ」「よかったね」という言祝ぎでしか語り得ないものが愛用のカメラである。単純化することもできなければ、言語化することさえ難しい。「愛用のカメラについて語る」ということが、どれほどリスキーで、どれほど不能なことなのか、つくづく知るようになる。

(Canon EOS 60D – F5 – 1/3200 – ISO1600, at Nakano Yayoi, Edge-Studio: 話の都合で紹介が遅くなりましたが、これが「K-50」です。めちゃくちゃかわいいのです。ふだん使わないカメラで撮るとドキドキします。設定値もミステリアスです…笑 )

愛用のカメラを見つけた

 それでもすこしだけ冒険的になって「愛用のカメラ」について語ろう。

 もともと愛用していたのは、オリンパス「E-420」というカメラである(写真がなくてごめんなさい)。ほしい色味がしっかり出ていて、ほどよいシャープネス。ぼんやりした空間や漂泊した空気感を撮りたかった私にとって、もう本当に、これしかなかったと思う。けれど最後まで形が好きになれず、あっけなく知人に譲ってしまった。ただ「E-420」は非常にうまく小型化されたカメラで、持ち歩くのに都合よく、このカメラのおかげで、散歩しながら風景を撮ることのたのしさを知ることができた。

 その頃ようやく、カメラがだれにとっても千差万別なんだと意識するようになった。それまでは「こうしなければいけない」とか、「これを知らなければこれは語れない」とか、「これを持ってないとこれを撮ってはいけない」とか、そういった道徳臭い掟に縛られていて、じぶんをつまらなくさせてしまっていた。じぶんの《ちょうどよさ》を求めていいのだと気づいてからは、懲罰的な発想から解放された。

 じぶんがいまカメラになにを求めているのかわかり始めると、スペック的なことであればどのカメラでも満たしてくれるのだとカメラを信頼するようにもなった。画質もそこそこでいいし、ホールド感も悪くなければいい。オート性能も、連写も、フォーカスも、感度も、どのカメラも充分にやってくれる。――もっとちがうことを要求してもいいんだ……!

 そうして私はじぶんの要求を追いかけ始めた。そこそこハードに振り回せるもので、チープでいいから見た目がかわいくて(愛せるもので)、使っていて心地よくて…と俗な都合を次々に挙げてゆき、いろんな初級機•中級機のカメラを試してみる時期を設ける。キヤノン「EOS Kiss」も「EOS 60D」もよかったし、ニコン「D800」も「D7100」もよかった。オリンパス「PEN」もよかったし、ソニー「α77」もよかった。そのなかでペンタックス「K-50」だけが、なぜか、ちょうどよかった。

 繰り返しになるが、その理由を一つひとつ説明するためによいところを枚挙するほど、どうしても検索結果やカタログみたいな話になってしまう。「K-30」と比べてどこが変わったとか、おなじ価格帯のカメラよりどう優秀かとか、そういうレビューは私にとってあまり意味をなさない。細かい性能差を軽視するわけではないが、重要視するわけでもない。

 もちろんそれは他のだれかにとっての《ちょうどよさ》なのだから、いちいち否定することでもない。すべての《ちょうどよさ》は祝福に値している。だから私たちには「愛用」とか「愛機」ということばが与えられているのだろう。

 愛用のカメラを見つけることができれば、それを祝福することができれば、私たちの人生はカメラによって無際限にちょうどよくなってゆくだろう。カメラの世界には、そのチャンスがいくらでも転がっている。たとえじぶんのなかの《ちょうどよさ》が変わったとしても、その質的な変化にどこまでも対応してくれる。

 銀板式写真機が発明されてからまだ200年にも満たない短いカメラの歴史のなかで、ようやく私たちは「カメラはこんなにたくさんある」と言える時代に突入したし、「君のためのカメラは絶対に見つかる」と断言できるところまできた。おそらくそれ自体が、祝福すべきことがらなのだろう。

 iPhoneやチェキ、トイカメラ、写ルンですでもいいだろうし、入門機でもフラッグシップ機でもミラーレス機でもいい。弛まず探せば必ずちょうどよいカメラが見つかるはずである。

 まだ見つかっていなければ、カメラを探しにゆこう。